鷲頭有沙
なりたい自分に余白を残すことの大切さ
むかしから余白や余韻といった
「何もないこと」が創り出す空気が好き。
オーケストラの演奏が終わったあとの
拍手が起こるまでのシンとした冷たい空気や
紅茶を注ぎ終えたときの
ポタポタと垂れる間隔がゆっくりになって、最後に一滴落ちた雫
空気がニュートラルに凪いでいるとき
私はとても心地よさを感じる。

毎日、せわしなく働いているときも
一生懸命に生きているときも
ベランダに出てぼーっと空を眺めてみたり
風に揺れる木々を眺めてみたり
自分が今生きている日常の中にある、ちょっとした余白や余韻を無意識に探している
ところが、
「キャリアを考える」ということになると、
不思議と余白のないギチギチの明確な姿を描こうとする。
「5年後には〇〇になって、〇〇を達成する」
どんな仕事をしていて、どんな肩書きなのか。
数値目標として何を目指すのか。詳細に具体的にしようとする。
それはもちろん大事なんだけど
なんだか窮屈だなあと思った。
キャリアの可能性は無限大だから、私はなりたい自分に少しだけ余白を残したい。
「5年後にプロのフォトグラファーである」
ということよりも
「5年後も写真を撮りながら楽しく暮らしている」
とする方が
余白があって、別の可能性があって、なんだかワクワクする
肩書きに”なる”
何かを“目指す”じゃなく、
〇〇をしながら“生きている”、“過ごしている”、“暮らしている”方が
私にとってはずっと心地よい
そして、“なんかできそう”と思える気がする
行動するには明確な目標は必要だと思う。
だけど、同時に、自分のキャリアの可能性に、ワクワクするために、
5年後、10年後になりたい自分に少しだけ余白を残すことも大切なんじゃないかな
なんて思っています